6月 29, 2012
新納 翔 連載#07 セルフポートレート
携帯にカメラが付きだしてもう15年くらいでしょうか。
当時、他社キャリアに画像を送る なな★メール なんてサービスもありました。ne7.jpてやつ。いやぁ懐かしいですね。
当時は携帯写真の画質は相当ひどいものでしたが、携帯についているのだからそんなものだろうと思っていました。
iPhone4Sになった今、携帯写真ともはや言えなくなるほどの画質になり、カメラを持ってなくてもiPhoneがあれば問題ないと思える程になりました。
携帯写真文化が年々変化する中、顕著に変化を見せているのは、「自撮り」であると思うのです。
僕自身「自撮り」という言葉にはどことなく馴染みが無いのですが、
写真の歴史をみれば古く聡明期からセルフポートレートは存在していたわけで、
セルフポートレートと自撮り、大まかな行為は同じと言えるでしょう。
ただ、細かく見れば大きく異なる、別物だと思います。
それは、
多くのセルフポートレイトは芸術作品の一環として制作するという目的の下撮影されたのに対し、
「自撮り」はあくまで私的な記録の延長として、今の自分がどう「見えるか」を伝えるに過ぎない、
という違いだと思います。
セルフポートレイトの目的は決して表層をだけを見せるものではなく、
そこから感じ取れる内面をも作品の一部としているように私は考えています。
「自撮り」には、ポートレート=肖像画という言葉が入っていません。
肖像画は己れのアイデンティティを誇示する為のツールであり、
ここで「自撮り」をInstagramにアップする行為がそれにあたるのかを検証しようと色々な方の「自撮り」写真を見ていました。
「自撮り」をしているのは比較的女性に多く見られるので、女性の「自撮り」という前提でお話します。
Instagramに並ぶ「自撮り」写真の多くはスナップの延長であることが多く、
さらに女性のそれの多くは第三者を意識したものと私は感じます。
しかし、
それらはあくまで表層的イメージの抽出であって内面を写し出そうという意図はあまり感じられません。
肖像権が声高に叫ばれる時代において、彼女らは自ら肖像権を破棄し、己の存在を示しているのでしょう。
まるで埋もれゆく個を開こうとしているかにもみえます。
私は「自撮り」というものに非常な危機感を抱いています。
本人の意識として、作品でもなければなんでもない、それら不気味な証明写真は、人の顔が写っていながらまこと何も写っていない、感情すらない。
とても怖いことだと思います。
言い換えると己の内面性には触れずして、表層的な己を伝えようとしているのでしょう。
それはもはやAさんとBさんの識別でしかならないように思えてしまうのです。
おそらくこう述べていても男性である限りどこかに疑問符を持ち続けるのでしょう。
彼女らの気持ちを真に理解することはできません。私的な携帯というものから漏れたかすかな声を。
【編集後記】
編集してないけど(笑)
もう学徒を放棄して数年経つのであまり詳細な事は言えないのだが、
ジャン・ボードリヤールの消費社会の神話と構造、ひいては消費社会論を彷彿とさせる。
彼は使用価値または労働集約としての価値ではなく、差異こそがモノの価値であると説いた。
自撮り=差異の表象だとしたら、あながちニューアカデミズムも廃たものでは無いと、思う。
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