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日本最大の Instagram ( インスタグラム ) ユーザーコミュニティ代表の えんぞう が適当にiPhoneカメラアプリのレビューとかInstagramとか写真関連とかの与太話なんかをします。

クラナドは人生、それと便座カバー。それとクラナドの感想。〜It’s a Wonderful Life〜




人生

40歳になった

そう言えば、クラナドは人生と言われているそうだ。

写真活動を満喫し、一男一女に恵まれた30代を総括する意味でも書き遺して起きたい。

嫁の育児里帰り中に迎える夏休み(の暇潰し)の為に買い求めた中古のPSVITA。何か面白いゲームはないものかと色々なサイトを巡っては、常に上位に「クラナド」という文字が踊る。ゲームだけではなく、泣けるアニメのベストには必ず「クラナド」がランクインしている。

ちょっと調べてみると「クラナド」はPCゲーであり、
エロゲー会社から発売されたゲームでありながら全年齢対象であり、
PCはもとよりPS2以降全機種ならびにPSP、VITA、果てはアンドロイド版まで異様なプラットフォームの広さを誇る所謂「ギャルゲー」または「ノベルゲー」である。
驚いたのは発売開始から15年を経て任天堂switchに移植された事だ。

何がそんなに凄いのか。
何がそんなに共感と感動と支持を集めたのか。

漏れの思索は40歳の誕生日を前に登り始める。長い、長い坂道を。

漏れはクラナド(原作)のせいで多分人生最長に泣いた(一対象累積時間比)。
今やBGMだけで泣ける程で、
誤って購入してしまったサントラを聴きながら通勤すると車内で涙ぐんでしまいヤバいくらいに仕上がってしまった。

漏れのクラナド率は概ね2ヶ月程で、VITA版で隠しシナリオを含め進捗100パーセントで攻略を完了し、アニメは配信分ざっと視聴を終えている。ゲームの方は60時間程度掛かり、アニメの方は仕様上14時間位掛かった。

あんまりにも泣き過ぎてワイ頭がおかしくなるだったのか、
何でそんなに泣く必要があるのか正直なところまだ消化不良を起こしており整理がついていない。

一体これはどうしたことであろうか。

今日はこれからクラナドについて10,000文字くらい書こうと思う。

尚、
当然根本的且つ完全にネタバレを含んでいるため、
少しでも関心を持って頂けたなら是が非でも原作またはアニメをご覧になってから、
一緒に振り返って頂けたらと切に願う。

結論、それと便座カバー。

何がそんなに凄いのか。
何がそんなに共感と感動と支持を集めたのか。

「クラナドは行きて帰りし物語・喪失と回復の物語の多重構造になっているから」

だと思う。

クラナドの物語の基本的な構成だが、
主人公「岡崎朋也」は後述する原因で鬱屈とした退廃的な日常を送っているが、攻略する対象に出会うことで非日常に「行き」、非日常で問題を解決して「成長」し、「帰りし」日常が(より豊かに)変化する、
という成り立ちとなっている。

この「成長」というのが、「喪失の回復」にあたる。
岡崎朋也は母親を欠損しており、妻を欠損した父親によって肉体を欠損し、その結果父親を欠損し、家族を欠損し、学校でのアイデンティティを欠損し、学校での居場所を欠損した。
欠損(喪失)の総合商社である。

登場する攻略対象となる主に女の子(男の子も)も何かを欠損しており、
欠損の総合商社である岡崎朋也と一緒にその欠損(喪失)を回復するという構成をとっている。

古河渚に限っては渚も朋也も双方全ての欠損を回復している。
※古河渚ルートは神話の構造にもなっている。

最終的に、岡崎は渚(=汐)の喪失を回復する為に自覚的か無自覚的かは置いといて、登場するほぼ全ての攻略対象の喪失を回復する、という多重2層構成になっている。

名作と言われるほぼすべての物語に於いてこの「行きて帰りし物語」「喪失と回復の物語」が型として基底にあると思われるのだが、クラナドが画期的だったのは、全ての登場人物に対して合理的にそれらを適用させた上で一つの物語として成立させた点だったのでは無いだろうか。

行きて帰りし物語、それと便座カバー。

行って帰りし物語は物語の基本構造となるもので、
マッドマックス怒りのデスロードの構成が最もわかりやすいと思う。
スタンド・バイ・ミーもそうだ。
宮崎駿の魔女宅あたりも分かりやすい気がする。
もう少し複雑化するとスターウォーズが神話要件をある程度満たした行きて帰りし物語になっていると思う。
※神話であるかないかについては「家族」が妨害者になるかどうかで判断している。

人はなぜ行きて帰りし物語に共感し感動するかについては判然としないところもあるが、
この解説が現状最も適切に思える。

これを読めば8倍泣ける!「これから」を生きるあなたの神話、「マッドマックス 怒りのデスロード」その5 | 雨夜の月/ほぼ週刊カルチャー夜話 https://amaya.jp.net/madmax-05/

上記に拠れば、その昔人間はすぐ死んだので喪失体験を乗り越える為に物語が必要だったそうだ。
我々は物語によって癒やされた、つまり救済されたのだとする。

だが現代別に人はすぐ死なない訳で、我々は何を喪失しているか、というところが味噌になるのだろうが、少し考えてみると我々というのは生まれつき何かを喪失しているし、その上で日々何かを喪失して生きているし、それを回復させることが日々の目的になっていはしないだろうか。
先天的に喪失しているのは例えば、富・才能(適性)・容姿、後天的に喪失するのは分かりやすいところで家族や友人等の人間関係だろう。もうちょっと言えば幼少期の誇大自己というのは誰しもが欠損するものであるし、結局のところ、
日常→欠損・喪失→現実逃避(もしくはガチ努力)→回復(と思い込む)→日常
の繰り返しというのは我々が日々経験していることにほかならないのかも知れない。

クラナドの感動、それと便座カバー。

前項で我々は物語によって救済されるとした。
物語とは「行きて帰りし」もので、「喪失を回復」するものだ。

実は強く共感するというのは感動の原因なんだそうだ。

感極まって涙が出るのはなぜ?  :日本経済新聞

https://www.nikkei.com/article/DGXNASGG1100I_S0A510C1000000/

我々はその物語に「強く共感」することによって「感動」して救済されるという訳だ。
クラナドは実はスター・ウォーズ的神話要件を満たした物語だったりする。

なぜ共感するのかと言えば、
日常→欠損・喪失→現実逃避(もしくはガチ努力)→回復(と思い込む)→日常
の繰り返しというのは我々の日常そのものだからだ。

クラナドの時空、それと便座カバー。

クラナドを一通りプレイまたは視聴後にモヤモヤするところがあるとすれば、
平行世界・ループ世界の考え方と、幻想世界、光の玉の役割になるだろうと思う。

これについてkeyクラナド公式側で言及は無いので、ユーザー側の解釈に委ねられている。

漏れ的に最も納得が行った解釈を紹介しておく。
これはゲーム版の解釈で、アニメ版の解釈は「ループなし」なものの大意は同じ。
※アニメ版でクラナドが気に入ったおっきなお友達は是非ゲーム版もプレイされたし。確実に涙腺が破壊される。保障する。

【此岸】

渚5歳で死にかける(または死んだ)

渚、秋生が辿り着いた「秘密の場所」で復活
この時渚は街と一体化し、幻想世界(街)が誕生する。

渚、朋也と出会う(A)

渚、汐を出産(Bへ)して・・・

光の玉が足りている場合 → 母子ともに無事(長い旅終了)
光の玉が足りていない場合

死亡
この時渚は此岸に於ける幻想世界(または街)の役割を汐に引き継ぐ
(または汐に役割が移ったため渚は此岸に存在できなくなり死亡)

汐5歳で死亡(C)
この時朋也は渚の出会い迄転送される(Aへ)

【彼岸(幻想世界)】

(B)汐此岸に誕生と同時に幻想世界にも誕生

汐朋也の意識(幻想世界の光の玉)認識

汐朋也の意識をガラクタで組み上げたロボットに実装

汐衰弱、ロボット(朋也)と幻想世界脱出を図る

汐実体消滅(C)、ロボット(朋也)を朋也と渚の出会い迄転送(Aへ)

(此岸での)光の玉が揃い渚が死なない世界線に到達するまでそのループが続く。

クラナドの幻想世界、それと便座カバー。

5歳の渚が死亡し街と一体化することによって再生した際に誕生した世界。
恐らくその世界の主は渚で、汐の誕生とともに主は交代している。
また、幻想世界に時間軸は存在しないため、宮沢 有紀寧の光の玉の説明に矛盾はないと考える。

汐の死亡に伴って消滅する。
汐が生存しても後述する神隠しに於いて恐らくは消滅するか、もしくは汐と切り離される。
汐が5歳で死亡する理由は不明だが、渚が5歳で死にかけた(または死亡した)事と関係があるのかも知れない。

また、渚と汐の原因不明の病は街と関連している。
街が姿を変えると渚の容態は悪化する。また、冬が来ても渚の容態は悪化する。

クラナドの光の玉、それと便座カバー。

此岸に於ける光の玉は幻想世界の主(汐)の「想い」。
幻想世界に於ける世界(街)の人々の様々な「想い」。

幻想世界の主(汐)の想いとしての光の玉が一定数集まると渚が死亡しない理由は不明。クラナドがドラゴンボールであるとする所以。

クラナドの朋也が渚と結ばれない世界線、それと便座カバー。

とすると、
朋也が渚と結ばれない世界線(他の登場人物と結ばれた世界線)はどうなるのかという疑問が湧くが、
そうした別の世界線も、朋也が渚と結ばれる世界線も同時に存在しており、幻想世界に於いてはそうした複数の世界線を俯瞰認識できる地平と解釈する。
この解説はアニメ版アフターストーリーでのことみの説明が詳しいが、ゲーム版ことみシナリオでもある程度理解咀嚼可能だと思う。

クラナドの汐が死亡した後の世界線、それと便座カバー。

渚死亡=汐死亡なので必ずループするため、汐死後の歴史は此岸に存在しない。
アニメ版だとその描写が分かりやすいのだが、
幻想世界でロボットが消滅する時点と汐が死亡して朋也が倒れ込む時点が同時な事から類推。

クラナドのループが閉じた後の世界線、それと便座カバー。

渚が死ぬ世界線と渚が死なない世界線に分岐するだけなので、
渚が死ぬ世界線に於いて朋也は光の玉を揃える迄ループしている。
(渚が死なない世界線に於ける朋也はループを経験している。)

331 :風吹けば名無し:2018/04/02(月) 23:33:32.21 ID:zpJEIxdo0
>>245
この町では光の玉が奇跡を起こすっていう言い伝えあったやろ?
1回目、渚が出産するときにその光の玉がたりんくて渚が死ぬ世界に分岐するんや
その世界で朋也が様々な経験(汐との旅行や親父との和解)をして光の玉を集めたんやな
汐は渚が死ぬ世界の中心やから(幻想世界参照)汐が死んだ時にその世界が壊れて渚出産の分岐点に戻ってきた、その時足りなかった光の玉があったから奇跡が起きて死なない世界に進んだ

via https://hawk.5ch.net/test/read.cgi/livejupiter/1522677696/

クラナドのゲームタイトル画面の解釈、それと便座カバー。

あの林(森)は「秘密の場所」である。
もしくは「この街の願いが叶う場所」である。

朋也が光の玉を入手するたびに、画面左下に光の玉が増えていく(アニメ版でもそう)。
渚トゥルーエンド後タイトル画面に戻ると、その場所に少女(汐)が横たわっている。
(漏れはこの少女が出てきた途端に爆泣きし、付録のBGM視聴画面に遷移して精神が崩壊している。)

この少女が汐である根拠は、
この画面からBGM視聴画面に遷移すると分かる。
それ以外では、
アフターストーリーに於ける風子の言動と、トゥルーエンドの風子の言動から類推する他ない。
※風子マスターのフラグを立てていないと後者は閲覧不能らしい

但し、
CLANNAD Official Another Story 光見守る坂道で
に於いて、渚は5歳の時に神隠しに逢い、この場所で発見される下りがある(そう)なので、確定と見てよいだろう。


万聞は一見に足るやも … PS2版CLANNAD-クラナド- 考察2 本編シナリオ考察

http://weblog890.blog15.fc2.com/blog-entry-1480.html

一方で、アニメ版エンディングでの見せ方に則ると、幻想少女の外見=汐の外見ではない。おそらく幻想少女は幻想世界(または街)の主、もしくはそのものであるとの自己言及があるので、此岸に於いては汐という写像で存在し得るものの、本来は幻想世界(または街)そのものであるため汐より広い存在になるのだろうと思う。

翼人伝説、それと便座カバー。

以下根本的且つ完全に「AIR」のネタバレを含んでいるため、
少しでも関心を持って頂けたなら是が非でも原作を読み込まれてから、
一緒に振り返って頂けたらと切に願う。

AIRの(メインシナリオの)結末について解釈が割れるそうだ。
ハッピーエンドなのか、バッドエンドなのか。

AIRのサブシナリオについては概ねハッピーエンドと言えるだろう。
どちらのルートもメインシナリオ理解の手引として機能しながら往人が関与することで登場人物の喪失は一応の解決を見ていく。

一方でメインシナリオはそれらやクラナドと比較して難解だ。

この理由は2つある。
シナリオに関わるループが転生であることと、(それに伴って)トゥルー・エンディングが分かりにくいことである。

まずループ。
クラナドのように「桜の木の下」と「光の玉入手」というシーケンスパターンの「始まり」と「終わり」が無いのだ。ループと言っても転生(柳也→往人→そら→そこらへんにいた子供)となり、同時点での主体が異なる為に感情移入が難しいのも特徴だろう。

続いてエンディングだが、
トゥルー・エンドはDREAM編の観鈴ルート終盤に差し込まれている。
具体的には、
一度観鈴と別れた往人がバス停で自らの偽らざる想いに気が付き引き返す道中、
武田商店の前で起こるフラッシュバックの部分である。

AIRについて 表 — http://www2.odn.ne.jp/~setta/air_t.html

このフラッシュバックは往人の「想像」だが、
Air編を終え宿命から開放された二人のもう一つの可能性を提示しているとも受け取れる。
※受け取れるものの宿命から開放されていたらそもそも二人は出会わないという考え方もある
※もしくは浜辺で遊ぶ子供達に転生した二人がそれを叶えていたという暗喩か、浜辺で遊ぶ子供の想像か

Airの解釈 — http://air.niu.ne.jp/air/fly_to_the_air.html

上記のような解釈をしない限り、AIRは思うに単なる悲劇である。
また、大義の為の玉砕がハッピーなのかそうでないのかは鑑賞者の思想に基づくようにも思える。
物語そのものは壮大であり面白く悲劇でも喜劇でもどちらであってもそれはそれでよいのだが。

本編よりも引っ掛かった存在が晴子である。

上記解釈に基づけば、
晴子は相変わらず観鈴と距離をおいていた(徹頭徹尾喪失していた)だろうし(場合によって観鈴は橘家に引き取られていたかもしれないし)、
そら編に基づいても、
晴子は観鈴を喪失している。
その晴子の姿は、
まるで神奈の母の様に振る舞い、
柳也を配偶者として疑似家族を構成した裏葉のようだ。

思い返してみると、
サブキャラクターの母親も母子関係からは疎外された存在であるし父親の存在も希薄だ。
往人にせよ観鈴にせよ早い段階で両親を喪失しており、全編を通じて秋生や早苗さんのような親や、古河家のような「完全な家族」が登場しない。

Airは、
本質的には孤独に支配されており、誰も帰ってこない。
行ったきりである。確かに各人使命は果たせたのかも知れない。
帰ってきたとは言えそれは転生であって、従ってみんな死んでいる。
更に諸悪の根源たる神奈は最初から最後まで徹底して大迷惑であり大不幸である。

AIRの発端は柳也の神奈暗殺阻止計画の失敗にある。
元々幸薄い神奈は寧ろそのまま暗殺されていた方がマシな死に方だったと言える。
何も眼前で母親を惨殺された上に、その母親から引き継いた呪いと、新規の呪いの無限呪縛地獄に堕ちることも無かっただろう。
それをして、
柳也と結託した神奈のかりそめの母親たる裏葉が子孫に尻を拭わせたという話がAIRなのだ。
尻拭いが故に、
死ぬ必要性が無かった観鈴は死に、産まれる必要すら無かった往人すら死に、
晴子は「本当の母親になれた」という儚い自尊心を糧に生きる羽目に陥ったというのが顛末である。
※本来起こらないで済んだ最後の翼人の無限呪縛が当事者全員の犠牲によって昇華した、
ひと夏のあの大事件の想い出を彩るBGMとして「夏影」は、その不条理さ故に切なすぎて名曲である。
※クラナドだって両親の不徳が契機だろうとの指摘があっても、当人は結果オーライなのがAIRとの大いなる差。

そこで漏れが想起したのが智代である。

にはは。

智代、智代アフター、それと便座カバー。

以下根本的且つ完全に「智代アフター」のネタバレを含んでいるため、
少しでも関心を持って頂けたなら是が非でも原作をご覧になってから、
一緒に振り返って頂けたらと切に願う。

クラナドの紹介にあたり、
朋也が「ほぼ」全ての攻略対象の欠損を回復すると述べたのは、
漏れ的には原作の智代(正確には諒もだけど)だけは、
朋也も智代も欠損を回復することが無かったように思えたからだ。
(アニメ版では智代と別れた朋也は「努力」して智代を回復するのだが、それは原作者の本意ではなかったそうだ。曰く普通の話になっちゃうから、だそう。出典は忘れた。但しアフターを鑑みなければアニメ版のほうが物語としてよく出来ている様に思える。)

それは、
智代が朋也の母親になろうとしてしまったからではないか
と邪推する。

強さの象徴のように描かれる智代だが、
ほんとうの智代は極度の依存・偏愛体質の持ち主で、
自立した自己、独立した自己を確立出来て居らず、
このために非常に脆弱な存在である。

劇中では具体的に朋也やともの母親になろうとする。
朋也の家で料理をする際に母親として振る舞う。朋也はそれを崇高な存在と表現している。

また、
生徒会長に落選した智代は完全に朋也に依存して堕落してしまう。
生徒会長に当選しても、桜を守るという目的を果たした智代は生徒会長としての責任を放棄して復縁を図る。

智代アフターでの智代は、
あたかも母親のように朋也に接しているように見受けられるし、
(朋也も母親に甘える様に智代に接しているように見受けられる)
ともを(母親として)溺愛し、ついには朋也と対立するに至ってしまう。
※渚ルートに於いては早苗さん(と渚)が朋也の喪失した母親を回復させている

そこで、
智代が喪失していたのは家族というよりは自立した自己なのだと推察する。
そして、智代は誰かの母親になることで喪失した自己を回復しようとしているのだ、と推察する。そうまでしないと誰かに必要とされている自分を認識できないからだろう。恐らく智代は聡明過ぎるのだ。

智代アフターに於いては母親の喪失が象徴的に何度か描かれている。
朋也は勿論だが、ともも母親を喪失する。河南子は母親の再婚に反対して家出している。
※父親に関しても直接的な動機として働ことは無いのだがやはりここでも欠損しており、智代と鷹文は既に一度両親を喪失して回復途上にあり、河南子の父親は死亡済み、ともの父親は原理上喪失、朋也の父親も喪失済みである。

クラナド本編では智代トゥルー・エンドによって智代は朋也の母親になる。一見するとそれはそれで相互補完されたのでよいのではないかという解釈もできる。しかし、智代アフターでは朋也と智代とともの疑似家族というかりそめの幸せというバッド・エンドが存在する。更に智代アフターに於ける智代は2度かりそめの子供を喪失してしまう。一度はとも、二度目は朋也(の記憶)である。ここから、原作者として智代がかりそめの母親になることをよしとしていなかったことが読み取れはしないだろうか。

ところで、
智代はアフターでの早い段階から(ありもしない)「永遠の愛」を希求している。
後日談として彼女はそれを「宝物」だと表現している。

これはあくまでも漏れ個人の認識ではあるが、
もし永遠の愛が「ある」とするならば、
辛うじて母性のことであり、
もしくは、
そういう愛があるとする信仰の次元で、
ではないだろうか。

このうち母性は彼女自身が体現しており、
記憶喪失の朋也が本能的または反射的に示した好意を根拠に、
「永遠の愛」を承認(劇中確認と言っていたか)して帰依、
つまり「信仰」の道に入ってしまっている。

朋也にしてみれば永遠と中学生としての朋也の7日間をループしているだけなので、常識的に考えて7日間で永遠の愛と称せる程の想いを見知らぬ智代に抱けるとは到底考えにくい。
いや、もっと言えば7日周期で自らを忘れる障碍者を智代が3年間献身的に介護し続けられたのは、最早永遠の愛が存在するという信仰が成した業か、母親の愛情が成した業かのどちらかではなかろうか。

そして、
智代は「永遠の愛」を「信仰」したので朋也を喪う覚悟ができ、
成功率の低い記憶回復手術に処した朋也を結果的に喪失する。
もし、
朋也が完全に回復してしまっていたとしたら、
彼女にとって「信仰」は不要になってしまう。
※朋也の母親としての自己が回復できるから
だから、
朋也が喪失されることによって、
永遠の愛という宝物(信仰)を拠り所に自立した智代の自己が維持できるのではないだろうか。

つまり智代は信仰によって自立した哀しくも強く美しい母親なのだ。

彼女は信仰によって朋也の(かりそめの)母親として生き抜く事を宿命付けられてしまった。
そして彼女は信仰(宝物)をインターネットを通じて「布教」する。
信仰でIt’s a Wonderful Lifeなのである。

この結末は決して幸福ではないが、
得てして現実とは回復なき喪失体験の連続で構成されている。
そのために人は喪失と回復の物語を必要とするのだと冒頭に述べた。

喪失体験の連続の中で強く生きるという事について語られた物語である智代アフターは、
端的に言えば、
「信仰」の物語なんではなかろうか。
更に言えば、
智代アフターはその「信仰」の「経典」なんではなかろうか。

タイトル画面のhopeという曲がそれを象徴しているように思えてならない。

それが漏れなりの智代アフターの解釈である。

うぐぅ、それと便座カバー。

企画主宰が異なるもののkanon以降のkey作品に通底するコンセプトを網羅している点でkanonも参照しておきたいと思う(既にTactics時代のONEで確立されていたそうだが)。

クラナド以降に敢えてプレイ(または視聴)の必要性は無いと思うのだが、処女作にしてクラナドに必要なエッセンスを網羅している点で資料的価値は高く、特に久弥直樹さんの3本については既にkey完成形と言って良い極めて良心的で高品質な作品だったので漏れ的に非常に楽しめた。

key完成形というのはいわば泣きゲーのフォース&フォームのことである。
とりわけ「泣きゲー」の手法は涼元悠一さんによって喝破されている。

物語の前半部分で時間をかけて主人公とヒロインとの他愛もない日常描写を描き、ヒロインをかけがえのない存在として印象付けて(萌やして)から、後半で二人を一気に不幸な展開に突き落とすというものである。手法として重要なのは前半部で描かれる楽しげな日常描写と後半部との落差であり、不幸な展開の結末は悲劇でも逆転による大団円でも構造に大差はなく、いずれにせよ、失われてしまったかけがえのない日常への郷愁に打ちひしがれ、不幸な展開に疲弊しているプレイヤーに対して、予め前半で敷いておいた「最後の一押し」のための布石[注釈 4]を用いて落涙によるカタルシスを促す

(クラナドまでの)key作品のもう一つの特徴は世界線の描き方で、
此岸と(時空を超えた)彼岸が存在し、
彼岸は登場人物(ヒロイン)に由来しており、且つ、彼岸は此岸を「呪縛」している。
そしてこの世界線で共通するのは、
一人称たる主人公がヒロインとの関わりを通じて、彼岸から此岸を開放するという物語だ。

着目すべきは荒削りながらも野心的な麻枝准さん作品2本だったと思う。
真琴シナリオでの「喪失と回復」と舞シナリオでの「彼岸と此岸とループ」とこの時点で(やや)難解ながら後続作品の根幹を成す要素、厨二感が惜しみなく網羅されている。

久弥直樹ドグマとポスト久弥直樹である麻枝准ドグマの違いは強迫性であるとする考察がある。

約束と呪い――「Key」と「久弥直樹」の差分として読み解く「麻枝准」 - merkmal — http://sr-ktd.hatenablog.com/entry/2018/06/11/002814

漏れはこの

だからこそ麻枝の用いる「約束」という言葉には、常に「果たさなければならない」という強迫性が滲んでいる。

という、
この強迫性に従いファンタジックに約束を履行するあたりが厨二感だと理解している。

そして、
この強迫性というのが麻枝准さんのドグマたる、
「どんな困難な事があっても、全力で頑張って生きていこう」
であるとする考察がある。

5-1. 麻枝准がCharlotteに至るまで — Charlotte(シャーロット) 総括③ Charlotteとは何だったのか - 時の魔法とclosing — http://mharayaruo.blog.fc2.com/blog-entry-42.html

漏れは、AIRでkanonを超えられなかった(と思った)麻枝准さんがkanonを再構築したのがクラナドであり、そこで一定の手応えを感じた麻枝准さんが再度AIRに挑戦したのが智代アフターだったのでは、と邪推している。

ただ仮に麻枝准さんのドグマが、
「どんな困難な事があっても、全力で頑張って生きていこう」
(・・・そうすれば奇跡が起きるかも知れないから/奇跡なんて起きなくても)であったとしたら、
その根拠が「強迫性」では共感は得られまい。

というのも、
誰しも困難最中全力で日常を生きているからである。

そもそも 生きること というのは強迫性を伴っており、
それは震災後の「頑張ろう日本」で決定づけられた感もあるのだが、
この頑張って生きていこうドグマは極めて痛烈に「現実」感を伴うのである。

つまり、
頑張ろうを脅迫されたド不幸な登場人物が可愛そうだ、
という同情(共感)を誘うことはあっても、
だから自らも頑張って生きていこうとは思わないだろう、
という事だ。

換言すれば、
Air/まごころを、君にでアスカが「気持ち悪い」と言ったけど、
わけわかんね、
みたいな話なのである。
※解釈にも拠るがアスカはシンジに殺されても別に良いと思っていたのだがシンジがそれをやめ他人の存在を受容したことを揶揄した台詞だとの立場で言えばそうだ

というのも、
頑張ろうを脅迫されたド不幸な登場人物が頑張っても絶対に報われないというのは、
実は当然のことなのだ。
もの凄いド不幸に陥った人間が頑張って報われるというケース自体が「奇跡」であるほうが普通だからである。

寧ろ、
kanonやクラナドに於いて丁寧に描写された「日常」を「奇跡」的に回復することで、
良かったね(共感)、だから自らも頑張って(本当はありもしない美しい)日常を大切にしよう(共感)、
と現実逃避に走ることこそがクラナドの泣きの本質では無かったか。

こうした観点でもって、
改めて我々が何故クラナドで号泣しなければならなかったのか、
を検討してみると なんか 分かる感じがしないだろうか?

地獄とは神の不在なり、それと便座カバー。

クラナド本編では奇跡が起きて、喪失が回復した。
智代アフターでは奇跡は起きなかったし、喪失も回復しなかった。

ああ、今終わる…。40歳になった漏れの思索の長い長い旅が――

我々は原作者に物語という救済を求めて日常を出発し、
クラナドに出会い信仰に入り、智代アフターにそれを喝破されて、
今ほど日常に帰ってきたのである。

信仰とは大仰な、
と思われたかも知れないが、
奇跡による復活の物語は太古の昔から経典として存在している。

新約聖書である。

新約聖書は大枠、父親不在のイエス・キリストが弟子の裏切りによって濡れ衣で処刑されたものの数日後に復活するという、キリストの弟子による伝承として知られている。また、一般に洗礼はイエスの復活という奇跡を承認することによって信仰に入るという儀式である。

クラナドは父性回復の物語であるという考察がある。

その考察は正しいと思う。
朋也は父性を以て登場する女性の喪失を回復し承認され、父性の承認の蓄積が幻想世界というセカイから渚ひいては汐を開放するからだ。
また、
智代は智代アフターに於いて、セカイを2度朋也という父性によって喪い、朋也という父性をも喪うが、その朋也(父性)を承認(信仰)することでセカイから踏み出すからだ。

では、果たしてクラナドは人生だったのだろうか。

少なくとも智代はこのように謳っている。

明日からは誰かの為に生きようと思う
あなたが残してくれた道だから
自分の欲望は捨てて
それが希望になるならば

hope-look up when I walk- feat.IA 麻枝准 feat.IA 歌詞情報 - うたまっぷ 歌詞無料検索 — http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=k-120523-397

尚、
漏れは勿論智代推しであり、
神回は「もうひとつの世界 智代編」である。

京都アニメーションの亡くなられました方々に、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

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